P 162ページの12列目の「故帰彼中田」の件。(NHK 漢詩紀行、監修:石川忠久・著者:牧角悦子)

読み下しとして 「ことさらに彼の中田に帰る」と していますが

中国の全唐詩の注釈を日本語で記すと 【この詩は曹植の流転の苦しみを詠ったもので、

初めの四句で、作者自身の流転の人生を歎き、次の十四句で、蓬の風に飛ばされ、流離う様を描き、

終りの六句で、作者の「流転にいとまのない私の苦しみを誰が分かってくれようか」と云うまとめの部分となって終わる】と

記されております。

即ち、「故」は「故郷」の「故」であり、「もとの」と云う意味です。

要するに、該当部分は 通釈にあるような「帰れるのだろうか」と云う疑問ではありません。

「元のあの田の中へ 戻してしまった」が正しいです。

尚、「帰」は 「もどす」とも読みます。

ですから、「故(もと)の彼(か)の中田に帰らしむ」と、読み下すのが妥当のように思います。

「驚飆」が帰したのですから。

以下のように訳すと そのスムーズさにより 納得いくものと思います。

「風で吹き上げられ、天に舞い上がり、天の涯まで行ったかと思うと、
   深い淵に落ちてしまい、強風が淵から救い出してくれたかと思うと、
     生まれた故郷の田舎に還してくれた、かと思うと、南へ北へ、東へ西へと」。

 

「吁嗟篇」、曹植

              この漢詩の読み

吁嗟此転蓬       ああ この てんぽう
居世何独然       世に居る なんぞ ひとり しかるや
長去本根逝       長く ほんこんを 去って ゆき
夙夜無休閨@      しゅくや きゅうかん 無し
東西経七陌       東西 しちはくを へ
南北越九阡       南北 きゅうせんを こゆ
卒遇回風起       にわかに かいふうの 起こるに あい
吹我入雲間       我をふきて うんかんに いる
自謂終天路       みずから てんろを終えんと おもいしに
忽然下沈泉       こつぜんとして ちんせんに下る
驚飆接我出       けいひょう我を むかえて いだし
故帰彼中田       もとの かの
中田に帰らしむ
当南而更北       まさに南すべくして 更に北し
謂東而反西       ひがしせんと おもいて かえって西す
宕宕当何依       とうとうとして まさに いずくにか よるべき
忽亡而復存       たちまちほろびて また そんす
飄颻周八沢       ひょうようとして はったくを めぐり
連翩歴五山       れんぺんとして 五山を へたり
流転無恒処       流転して つねの処無く
誰知吾苦艱       たれか わが くかんを知らん
願為中林草       ねがわくば ちゅうりんの草となり
秋隨野火燔       秋 やかに したがって やかれん
糜滅豈不痛       びめつするは あに いたからざらんや
願与株荄連       ねがわくば しゅがいと 連ならん

 

この漢詩の訳

ああ、この転がる蓬(よもぎ)よ

この世界にあって 何故ひとり こんな運命なのであろうか。

長い間 根を離れて さまよい

朝早くから夜遅くまで、休まる時がない。

東へ西へと畝を越え

南へ北へと畦を越えて行く。

突然起こった つむじ風に遭遇し、

雲の間にまで吹き上げられてしまった。

みずから もう天の路も終わりかと思ったら

たちまち深い淵に下りて来た。

今度は はや風が 私を(沈泉から)迎えて、出して

結局は 元のあの田の中へ 戻してしまった。

南に行こうと思っているのに更に北へ行き

東へ行こうと思っているのに反対に西へ向かう。

広大でとりとめがない、一体何に頼ればよいのか

たちまち消えては また現れる。

ふわふわと 八つの沢をめぐり

ひらひらと五つの山を通り過ぎた。

定め無き 流転の人生

私の苦しみを誰知ろう。

願わくは、林の中の草となって

秋の野焼きに焼かれたい。

焼けただれれば、どうして痛くなかろうか、痛いだろう

(しかし、焼かれても良いから)願わくは 根っ子と繋がっていたいものだ。


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